若き先生方へ 安田允

若き先生方へ

思いつくままに慈恵医大産婦人科の若手の先生方へ拙文を送りたいと思います。

1)小生の若かりしき時代の思い出

1962年(昭和37年)慈恵医大に入学した、当時の学長は樋口一成先生で入学時の祝辞は、「君たちは超一流大学に入学されたのであるから紳士でなければならない、これからは君たちをジェントルマンとして扱うのでその積りでいて欲しい、また医学部は体力を必要とする学部であるので学生時代は運動部に入部して大いに体力を鍛えて欲しい。」と訓示された。
自分は高校時代からバレーボールをしていたので、迷わずに入部をして6年間、6人の同期と共にバレーボール生活に打ち込み東医体でも優勝することができたことに感謝している。
学部5年生の頃から全国的に学生運動が盛んになり、インターン制度の廃止を求める声が強く挙がり青医蓮が結成された。国家試験ボイッコットが決議され、全国の医学生全員が受験を放棄した。6年生になっても学生運動はとどまることを知らず慈恵医大、1966年(43年)卒業組でも国試ボイコットが決議され、春の国家試験は破棄された。その後、42年、43年卒業生のクラス大会が開かれ秋の国家試験を受けことが決定され受験することになり無事に医師に成ることができました。とにかく大学生活は運動部一色で、先輩、同僚、下級生に囲まれた充実していた。インターン制度は廃止され、慈恵医大では病院長直属の研修医となり自主カリキュラムの研修を始めた。翌1969年(昭和44年)に3学年が同時に産婦人科教室へ入局となる大変な時代であった。

2)研修時代

入局した1969年は産婦人科が一臨床、2講座制の始まった年であった。小生は第一講座の渡辺行正教授に入局させていただき、研究班は寺島先生が引き継いたばかりの卵巣班となった。同期の中島先生は蜂屋先生の内膜班、遠山、澤木先生は細川勉教授が主催する第二講座の伊藤班入り研究を始めた。なお松本先生と美馬先生は佼成病院病院の小林一夫先生の元で研修を始めた。
入局当時は毎日病棟勤務で婦人科、産科を3〜4ヶ月のローテイションで勤務した。当時の自分は学位を取り10年くらいで、開業したいと考えていたので臨床をとにかく頑張った。また医局に戻ると当直の先生方や先輩方が飲みながら失敗談や珍しい経験談、桃山話など、時を忘れて聞き入っていたのも懐かしい思い出である。今はもう大学内の飲酒が禁止されそのような伝統がなくなりさみしい限りである。
そのほか臨床では、第三病院、青戸病院、佼成病院、富士市立中央病院に出張させられ、先輩からいろいろなことを教わりた。各病院ではそれぞれの特徴、工夫を凝らしてやっていたので、これは良い方法と思え、自分に合うことは積極的に取り入れ自分のモノになるようにした。
当時の学会は四水会(慈恵医大、慶應大学、女子医大、日本医大の四校)、東京地方部会、関東連合地方部会、日産婦、がん学会、がん治療学会、内分泌学会、産婦人科手術学会、臨床細胞学会などで、その他色々な研究会があった。
言われるままに学会発表をさせられ予演会で揉まれた。学位論文は樋口先生から『若年者の充実性卵巣腫瘍と病理学的研究』のテーマを頂き寺島先生に内容構成や文章のまとめ方など、色々な教育を頂きながら無事完成し、モスクワで開催された、世界産婦人科連合(FIGO)にて発表した。このころが一番文献検索や抄録集を集めたりした。今の様にパソコンなどのない時代であり図書館で調べなくてはならなかった。学位取得後は研究班でも中心になっていたので各学会に演題を必ず出すように心がけた。
当時から手術は好きで暇があると、手術室へ出かけて樋口学長の手術や外科との兼科手術はよく見学した。また暇な時は時間を作り他大学の有名な先生の手術見学に出かけ良き操作は自分に取り入れ、その後の手術に役立てた。
樋口式横切開;樋口繁治先生により考案され、その後、樋口一成先生の改良が加わり本手術術式は素晴らしきもので慈恵医大の永遠の宝物である。 若き先生方には十分に本術式を理解し伝統を受け継いでいただきたいと思います。最近、若手の手術を見学していると変法が多すぎる印象を持ちます。良い方法であれば問題ありませんが、少しの違いが全く違ったものに進む可能性があります。指導医は注意、忠告する義務があると思います。
手術をする上で大切なことは第一に手術の基本操作、第二に解剖を知る、第3に手術術式を理解し無駄の無き操作、第四に術者と助手は一体となり協力して操作する。
詳細は小生が書き下ろした「婦人科手術手技」ぱーそん書房発行を購読して、より一層のスキルアップを目指して欲しいと思います。

3)研究時代

卵巣班では毎年恒例として真夏の8月に日本産婦人科学会の卵巣腫瘍登録委員会が開催され担当した。全国の大学から、診断不明や珍しい症例の登録があり、検討、勉強する会である。前日は我々の研究班員が最も重労働で過酷な日で、夏休みに入った埃まみれの組織学教室の掃除と顕微鏡を箱から出し整備し、机の上に6台ずつ配置する作業であった。冷房のない時代であったので、皆汗まみれ、埃まみれになって働いた。
第一日目は登録症例を検鏡し診断を投票しその日が終わる。我々は6時頃から投票結果を症例ごとに整理し明日の討論会に備えなければならず、パソコンのない時代であったので大きな模造紙に結果を症例ごとに清書し1日目が終了した。その後、みんなで夜遅くに食事をした。2日目は病理診断の結果を加藤教授が座長され、有名な教授、病理の先生の意見や討論を聞き大いに勉強になり、その後の病理診断の助けになった。慈恵医大の婦人科病理学を改めて偉大であると感じた頃であった。
同期に第二解剖学(組織学教室)の石川教授、医科研に金井助教授がいたので、磯西先生や山田先生を派遣し、組織培養や基礎医学を教えていただき、細胞株の樹立を心がけその後、若手の学位取得に役立った。
研究の責任者になったら若手の学位指導は大切なことであり、講師以上の先生は研究にも心を砕いて欲しいと思います。

4)付属柏病院の思い出

1987年(昭和62年)4月、手賀沼のほとりに付属柏病院が完成し、初代の産婦人科部長に当時講師であった小生が任命された。当時の阿部理事長から慈恵医大の浮沈を賭けた病院であるので頑張ってほしいと叱咤激励され赴任した。当初7人体制であったので、当直、外来、入院(分娩、手術)、教育と大変であった。
柏病院の方針として、責任は自分が取るので自由になんでも好きなことを覚えてほしいとの思いであった。
また、救急患者は全て受け入れるよう指導し、病診連携に心がけた。診療では帝切開は極力少なくとの方針を立て、帝切の適応を厳しくした。骨盤位、双体は適応外であった。また鉗子分娩やVBACにも挑戦した。特に問題は起こらなかったが若手の先生には大変な思いをさせたと反省している今日この頃です。
手術に関して、悪性腫瘍は4週以内、良性手術は2ヶ月以内の入院させ、早期離床、早期退院を基本とした。
入院期間はできるだけ短く、分娩は4日、良性種々は1週間入院を基本とした。いつかは本院を追い越し、本院には負けるものかという気持ちで頑張り通し、分娩数700件以上、手術件数700件以上を記録し、本院を追い越した時は嬉しかった。
全てに全力であたり、外来は午後1時までの終わらせ、手術その他の雑用も午後6時までに終わるよう心がけたので、若手はアフター5を楽しんでいたようである。やはり飲み会は気分転換する上で大切であり、次の日の朝は6時にロイヤルホストに集合し皆で朝食を共にした。メリハリある人生を送って欲しいと思います。

5)慈恵医大の若き産婦人科医へ

慈恵医大の建学の精神は『病気を診ずして、病人を診よ』であり、産婦人科に入局しても健康で、逞しい精神と丈夫な肉体が必要であります。大学であるので全て自分で責任を持ち、管理し、自身から勉学に努めなければなりません。医局生活はstep by step 一歩ずつ堅実に行きましょう。まずは臨床をしっかり覚えることです。すると臨床研究の発想が生まれてきます。そこからさらに基礎研究へと進めていけばいいと思います。各研究班ごとに色々テーマがあると思いますので、早く自分の研究課題を見つけ頑張って欲しいです。その結果、さらに他施設との共同研究に進めていければ最高です。
しかし全員が大学に残るとは限りません。色々な道がありますので自分で判断し決定することも大切であります。いかに卒後生活を過ごすかは全て自分で管理し運営すべき人生です。
最後に教育ですが、これは手抜きすることなく自分が教えたいことをしっかり学生やレジデントに伝えることが大切と考えます。すると義務的なことから一歩離れた自由で楽しい教育ができると思います。それが大学の伝統になります。
自分の好き勝手を言わせていただきましたが、皆様がさらに愛する慈恵医大を発展させてくれることを願って筆を置かせていただきます。

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